2020.06.04 (Thu)
実績(シンプル版)
奥田みのり
mino_okuda@yahoo.co.jp
実績
雑誌
「オルタナ」(オルタナ)
「週刊金曜日」(金曜日)
「DAYS JAPAN」(DAYS JAPAN)
「ビッグイシュー」(ビッグイシュー)
「オルタ」(連載)(アジア太平洋資料センター)
「週刊SPA」(扶桑社)
「JPN Management」(経営ソフトリサーチ)
ウェブ
「どらく」(朝日新聞社)
「CANPAN」(日本財団)
「Yahoo!ボランティア公式ブログ」(Yahoo!)
そのほか
・雑誌『クーヨン』2010年1月号に、ブロガーとして紹介(2010年1月)
・メラニー・マレンさん来日公演 日本からの発表者として講演(2009年11月)
・TOKYOメディフェス2009の分科会「市民記者・ブロガーのためのCSRジャーナリスト講座」の講師(2009年9月)
・映画「へばの」のトークショーゲスト(2009年2月)
・三菱総合研究所発行の雑誌『自治体チャンネル』の座談会「10年後のソーシャル・ビジネス」に参加(2008年12月)
・雑誌「オルタナ」編集委員(2008年1月)
得意分野
・CSR(企業の社会的責任)
・社会問題
・NPO・NGO
・人物取材
・体験ルポ
mino_okuda@yahoo.co.jp
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雑誌
「オルタナ」(オルタナ)
「週刊金曜日」(金曜日)
「DAYS JAPAN」(DAYS JAPAN)
「ビッグイシュー」(ビッグイシュー)
「オルタ」(連載)(アジア太平洋資料センター)
「週刊SPA」(扶桑社)
「JPN Management」(経営ソフトリサーチ)
ウェブ
「どらく」(朝日新聞社)
「CANPAN」(日本財団)
「Yahoo!ボランティア公式ブログ」(Yahoo!)
そのほか
・雑誌『クーヨン』2010年1月号に、ブロガーとして紹介(2010年1月)
・メラニー・マレンさん来日公演 日本からの発表者として講演(2009年11月)
・TOKYOメディフェス2009の分科会「市民記者・ブロガーのためのCSRジャーナリスト講座」の講師(2009年9月)
・映画「へばの」のトークショーゲスト(2009年2月)
・三菱総合研究所発行の雑誌『自治体チャンネル』の座談会「10年後のソーシャル・ビジネス」に参加(2008年12月)
・雑誌「オルタナ」編集委員(2008年1月)
得意分野
・CSR(企業の社会的責任)
・社会問題
・NPO・NGO
・人物取材
・体験ルポ
2013.05.18 (Sat)
雑誌『週刊金曜日』943号
『週刊金曜日』933号(5月17日発売)に、水俣病裁判の記事を書きました。
前回も水俣病裁判について書いてますが、このときは溝口裁判の最高裁判決について。
今回は、同じ日の最高裁でだされた別の水俣病裁判についてです。
原告は水俣病と認定されたのですが、チッソが補償協定の締結を拒否すると考えられる現在の状態について書いています。
前回も水俣病裁判について書いてますが、このときは溝口裁判の最高裁判決について。
今回は、同じ日の最高裁でだされた別の水俣病裁判についてです。
原告は水俣病と認定されたのですが、チッソが補償協定の締結を拒否すると考えられる現在の状態について書いています。
2013.05.05 (Sun)
『魂うつれ』53号 杉本栄子さんをしのんで
2013.05.05 (Sun)
雑誌『週刊金曜日』941号
2013.02.28 (Thu)
水俣病患者支援者との共演?共闘? 映画『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』 のあるシーンについて
1970年 新宿通り。日活オスカー前。水俣病患者支援のカンパ・署名集め。渡哲也 原田芳雄 梶芽衣子… これらの言葉にピンとくる方、いらっしゃいませんか?
二年ほど前になるが、藤田敏八監督の『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』(1970年)を見て驚いた。役者の渡哲也、原田芳雄、梶芽衣子が新宿通りを歩いているシーンに、突然、水俣病患者支援の運動をしている人々が映し出されたのだ。あっけにとられていると、渡哲也扮する「西神勇次」が、背中に「告発」のゼッケンをつけた患者支援の女性に近づき、署名集めに協力する。その様子を、原田芳雄扮する「松方直」と梶芽衣子扮する「笑子」が覗きこむという展開に。この、30秒にも満たない水俣病患者支援者とのシーンは、今も私の心を捉えたまま離さない。なぜなら、「共演」の経緯が謎に包まれているからだ。
このシーン、本物の患者支援運動にゲリラ的に入り込んで撮影されたものなのだろうか。あるいは、本物の患者支援の若者たちと事前に打ち合わせをし、あのシーンを撮影したのか。それとも、映画のために役者が支援者を演じているのか――。

シナリオには、「歩行者天国で賑わう商店街を、笑いながら歩いている三人(略)嬉々として歩く」とだけある。
患者支援のシーン
今はなき「日活オスカー」(映画館)が映っているので、撮影場所は、現在の伊勢丹と丸井本店が面している新宿通りであることは間違いない。
撮影は1970年ではないか。というのも、日活オスカーではこのとき、1970~73年に公開されていた『戦争と人間』が上映中だったからだ。『新宿アウトロー』は70年の作品なので、『戦争と人間』の公開期間とかぶる70年に撮影されたと予想できる。
新宿通りでの患者支援といえば、宮本成美さんが撮影された写真に、このシーンをほうふつさせる一枚がある。1971年1月に撮影されたもので、新宿通りで川本輝夫さんが遺影を抱きながら、支援者がかかえる拡声器のマイクで訴えている写真だ。「怨」の字の旗がはためき、日活オスカーの『エデンの東』の看板が写っている。
もしや、宮本さんの写真に写っている支援者は、映画に映っている支援者と同一人物ではと思い見比べてみたが、一致する顔はなかった。
藤田敏八監督について
映画監督の藤田敏八監督は、1932年平壌生まれ。終戦後は四日市で高校まで過ごし、一浪して東大文学部へ進学。在学中に俳優座養成所に入るが、55年、日活に助監督として入社し、67年に『非行少年・陽の出の叫び』で監督デビュー。70年には『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』を発表した。
過去の新聞記事によると、代表作として取り上げられることが多いのは『八月の濡れた砂』(71年)などの日活青春映画や、『スローなブギにしてくれ』(81年)『ダイヤモンドは傷つかない』(82年)といった作品で、『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』については言及がない。このことから筆者は、未だ「水俣病支援者との共演!?」の真相にたどり着けないでいる。
「異才の映画監督」として藤田監督をとりあげた朝日新聞三重版(2007年9月13日)はこう書いている。
「撮影現場で面白いものを見つけると、即効的にカメラを向けさせた。この遊びが彼の真骨頂で、盟友でプロデューサーの岡田裕は『彼はつじつまのあわないことを思いつく男で、いつも人が考えることを裏切った。いわゆる天才型だった』と話す」。
これを読むと、藤田監督は、偶然、新宿通りで水俣病患者支援の人々を見かけ、あのシーンを撮ったのかもしれないと考えてしまう。だとすれば、この季刊誌の読者のなかに、「そういえば、渡哲也が署名したとか、署名する演技をしたとか、聞いたことがあったな」という方がいてもおかしくないのだが、先日水俣に行った際、何人かに聞いてみたが、みな『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』という映画の存在自体を知らなかった。
藤田監督には、68年に撮影したドキュメンタリー映画『にっぽん零年』という作品がある。
河辺和夫監督との共同制作であるこの作品には、新宿騒乱(68年)や東大安田講堂落城(69年)のシーンも含まれている。藤田監督は学生運動の活動家を密着取材していたというから、どこかで水俣病の患者支援に関わる学生と出会い、水俣病事件になんらかのシンパシーを感じていたとも考えられないだろうか。そういえば『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』の例のシーンは、監督なりの水俣病患者支援運動との「共闘」ではないかという意見も聞いたことがある。
ご本人にお聞きできればいいのだが、藤田監督は97年に、肺不全のため亡くなっている。65歳だった。ご存命であれば、今年で81歳になられる世代のおひとりであった。
映画撮影シーンについて、些細なことでも結構です。ご存知の方いらっしゃいましたら、ご連絡いただければ幸いです。
※季刊水俣支援東京ニュース No.64 2013.1.25 に寄稿した記事を転載。
二年ほど前になるが、藤田敏八監督の『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』(1970年)を見て驚いた。役者の渡哲也、原田芳雄、梶芽衣子が新宿通りを歩いているシーンに、突然、水俣病患者支援の運動をしている人々が映し出されたのだ。あっけにとられていると、渡哲也扮する「西神勇次」が、背中に「告発」のゼッケンをつけた患者支援の女性に近づき、署名集めに協力する。その様子を、原田芳雄扮する「松方直」と梶芽衣子扮する「笑子」が覗きこむという展開に。この、30秒にも満たない水俣病患者支援者とのシーンは、今も私の心を捉えたまま離さない。なぜなら、「共演」の経緯が謎に包まれているからだ。
このシーン、本物の患者支援運動にゲリラ的に入り込んで撮影されたものなのだろうか。あるいは、本物の患者支援の若者たちと事前に打ち合わせをし、あのシーンを撮影したのか。それとも、映画のために役者が支援者を演じているのか――。

シナリオには、「歩行者天国で賑わう商店街を、笑いながら歩いている三人(略)嬉々として歩く」とだけある。
患者支援のシーン
今はなき「日活オスカー」(映画館)が映っているので、撮影場所は、現在の伊勢丹と丸井本店が面している新宿通りであることは間違いない。
撮影は1970年ではないか。というのも、日活オスカーではこのとき、1970~73年に公開されていた『戦争と人間』が上映中だったからだ。『新宿アウトロー』は70年の作品なので、『戦争と人間』の公開期間とかぶる70年に撮影されたと予想できる。
新宿通りでの患者支援といえば、宮本成美さんが撮影された写真に、このシーンをほうふつさせる一枚がある。1971年1月に撮影されたもので、新宿通りで川本輝夫さんが遺影を抱きながら、支援者がかかえる拡声器のマイクで訴えている写真だ。「怨」の字の旗がはためき、日活オスカーの『エデンの東』の看板が写っている。
もしや、宮本さんの写真に写っている支援者は、映画に映っている支援者と同一人物ではと思い見比べてみたが、一致する顔はなかった。
藤田敏八監督について
映画監督の藤田敏八監督は、1932年平壌生まれ。終戦後は四日市で高校まで過ごし、一浪して東大文学部へ進学。在学中に俳優座養成所に入るが、55年、日活に助監督として入社し、67年に『非行少年・陽の出の叫び』で監督デビュー。70年には『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』を発表した。
過去の新聞記事によると、代表作として取り上げられることが多いのは『八月の濡れた砂』(71年)などの日活青春映画や、『スローなブギにしてくれ』(81年)『ダイヤモンドは傷つかない』(82年)といった作品で、『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』については言及がない。このことから筆者は、未だ「水俣病支援者との共演!?」の真相にたどり着けないでいる。
「異才の映画監督」として藤田監督をとりあげた朝日新聞三重版(2007年9月13日)はこう書いている。
「撮影現場で面白いものを見つけると、即効的にカメラを向けさせた。この遊びが彼の真骨頂で、盟友でプロデューサーの岡田裕は『彼はつじつまのあわないことを思いつく男で、いつも人が考えることを裏切った。いわゆる天才型だった』と話す」。
これを読むと、藤田監督は、偶然、新宿通りで水俣病患者支援の人々を見かけ、あのシーンを撮ったのかもしれないと考えてしまう。だとすれば、この季刊誌の読者のなかに、「そういえば、渡哲也が署名したとか、署名する演技をしたとか、聞いたことがあったな」という方がいてもおかしくないのだが、先日水俣に行った際、何人かに聞いてみたが、みな『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』という映画の存在自体を知らなかった。
藤田監督には、68年に撮影したドキュメンタリー映画『にっぽん零年』という作品がある。
河辺和夫監督との共同制作であるこの作品には、新宿騒乱(68年)や東大安田講堂落城(69年)のシーンも含まれている。藤田監督は学生運動の活動家を密着取材していたというから、どこかで水俣病の患者支援に関わる学生と出会い、水俣病事件になんらかのシンパシーを感じていたとも考えられないだろうか。そういえば『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』の例のシーンは、監督なりの水俣病患者支援運動との「共闘」ではないかという意見も聞いたことがある。
ご本人にお聞きできればいいのだが、藤田監督は97年に、肺不全のため亡くなっている。65歳だった。ご存命であれば、今年で81歳になられる世代のおひとりであった。
映画撮影シーンについて、些細なことでも結構です。ご存知の方いらっしゃいましたら、ご連絡いただければ幸いです。
※季刊水俣支援東京ニュース No.64 2013.1.25 に寄稿した記事を転載。



