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2014.04.18 (Fri)

第33回土門拳賞授賞式 水俣を撮り続けた桑原史成さんに

2014年4月16日のことです。
第33回土門拳賞授賞式に行ってきました。


桑原史成さん

受賞された桑原史成さん(写真)です。
トロフィーと、受賞作品の一つ、写真集『水俣事件』を手にされています。
(正確には受賞作は、写真展『不知火海』と写真集『水俣事件』)

2012年の冬だったか、東京の大江戸線で、偶然、桑原さんにお会いしたことがあります。
そのときに桑原さんが、藤原書店から写真集を出す話があるんだと嬉しそうに話してくれました。その写真集が、今回の土門拳賞受賞作品となった『水俣事件』です。

トロフィーや賞状授与の後の、歓談の時間、主役の桑原さんは当然のことながらひっぱりだこ。私が話を聞ける機会はないかと思いきや、一瞬だけ、桑原さんと一対一でお話できる機会がありました。

77歳にして新人賞!?
土門拳賞を受賞してのお気持ちは?
「80歳まで現役だとして、77歳にして新人賞をもらったような気がします。サッカーでいう、ロスタイムに一点入ったような。あと3年というロスタイムのなかでね」

水俣病事件を初期から見続けてきたお一人である桑原さん。宇井純さん、原田正純さんが亡くなり、ご存命でいらっしゃるのは石牟礼道子さんと桑原史成さんのお二人になりました。
「その後も、新しい人が入ってきているから、そうした人もいれたらもっと増えますよ」

という話をしている最中、「桑原さん、誰々さんが呼んでます」と声がかかり、私の取材はここで終わりとなりました。

サッカーの試合にご自身の現役人生の残り時間をたとえていらしゃいましたが、桑原さんに原田正純さんが亡くならた際にインタビューさせていただいたのですが、そのときも、「彼は、サッカーの試合でいうと後半戦で力量を発揮した人じゃないか」と話されていらっしゃいました。

そのときの記事はコチラ 
水俣病事件の初期を知る第一世代の同志・桑原史成さん、原田正純さんを語る

桑原さんがいうところの、水俣病を追っている「新しい人」が、桑原さんより後から水俣病を追い続けている人と解釈していいのなら、来賓祝辞を述べられた村上雅道さんは間違いなくそのお一人だと思います。

普通の積み重ねが、桑原さんの言動力
3年前まで熊本放送で水俣病をはじめとするドキュメンタリー番組を制作されていた方。世に送り出した水俣関係の番組は13本。今も長崎県立大学の教授の仕事をされながら、水俣についての新作を制作中とのこと。職業が変わっても、水俣を追い続けている一人であります。

スピーチでは、桑原さんと村上さんが出会うきかっけになったドキュメンタリー『記者たちの水俣病』(2000年)作成秘話を聞くことができました。この作品は、メディアが水俣病をどのように報道したのかを検証したといいます。作品のなかで桑原さんには、「大手メディアが水俣病から目をそむけていたときに、真正面から患者と向かい合ったジャーナリスト」として登場してもらったそうです。

村上雅道さん

「桑原さんと(番組の取材のために)最初に出会ったのが六本木のアマンドの前。待っているときはすごく緊張していた」と語る村上雅道さん。

そのときの村上さんにとって、桑原さんといえば、「チッソ工場内で秘密裏に行われた猫400号実験をスクープしたジャーナリスト」であり、「洞察力のするどい報道写真家」だったそうです。

「だから、待っている間は緊張がピーク。ところが、お会いしている間に印象は変わっていきました。温和な顔、飾りっ気のないしゃべり口。なにより、全てを受け入れてくるおおらかな人間性が、私の緊張をやわらげてくれたんじゃないかと思います」

そして、インタビューを開始すると、村上さんが桑原さんに抱いていた印象がさらに変わったといいます。

「やはり(私は)テレビ屋なんで、非日常的なものを求めるんですね。ところが桑原さんからでてくるのは、普通のことばかり。普通の人が、普通の姿勢で、普通のことを考えた。私の桑原さんへの印象も、普通のおじさんのイメージに変わっていきました」

桑原さんへの取材は三回行われ、六時間ほどお話をうかがったといいます。

「でも、桑原さんの話を聞いていたら、話をうかがうたびに、話の重みが増していく。いつのころからか、桑原さんの世界に引き込まれてしまう。これぞ、普通の積み重ねが、桑原さんの作品の原動力か、と思うようになってきました」

以来、水俣病のドキュメンタリーのみならず、他のテーマのドキュメンタリー番組をつくるたびに、村上さんは桑原さんのことを考えるようになったといい、「ある意味で、制作者としての恩師でもあります」と話しました。

スピーチの最後は、水俣病「公式」確認の日である5月1日について。水俣では毎年、水俣市主催の犠牲者慰霊式が行われています。新作制作中の村上さんは、「桑原さんもこの日は水俣にいらっしゃるんですよね。ぜひ、ジャーナリストとしての真骨頂を見せつけてください」と結びました。


突然のご指名でスピーチをすることになったのは、籏野秀人さん(新潟水俣病安田患者の会世話人)でした。

籏野秀人さん

冥土連設立宣言を載せてくれて感謝
「突然しゃべろといわれたんですが、決して、褒めるなといわれました。(笑)
そもそもある日(桑原さんから)電話がきて、『籏野さん、僕は土門拳賞もらうことになったんだけど』というので、よかったじゃないですかといったら、『あんた人が死んでいるんだぞ、そんなんでもらっていいのか』というわけです。授賞式の案内状が届くかもしれないけど、わざわざ新潟から来なくていいぞって。でも、来なきゃなんないじゃないですか」

「うれしかったのは、今回の写真集『水俣事件』に、“水俣病になってしまったけど、生きていてよかった”という『冥土連設立宣言』を書かせてもらったこと。(写真集には)新潟代表として、坂東弁護士と私に執筆を依頼してくれました。(依頼されたときに)え、私でいいんですかって、写真集の品位が落ちると思ったんですけどね。桑原さんは、すごい仕事をされるんだけど、お茶目なところ、ちょっと危ないところがあって、そのへんはたぶん、私と共通している」

「桑原さん77歳でしょ。こんな大きな賞もらって。もうちょっと働けってことなんだから、あと3年だけは、一緒に付き合っていただきたいと思います」

冥土連:正式名称「冥土のみやげ全国連合」。「水俣病にはなってしまったが生きていて良かったと、患者さんに喜んで貰える冥土のみやげをつくろう!」が設立宣言の内容。

桑原史成さん 受賞者挨拶
「(受賞を知らせる連絡をうけて)受賞の対象になった作品はなんですかと聞くと、去年発表したものだというので、それを聞いて率直なところ困ったなと思いました。去年といえば、水俣について写真展をやり、写真集をだしているんで。別のテーマならよかったんだけど。

水俣事件というのは、認定されている患者がざっと3000人。うち、亡くなられたのが正確にはわからないが2000人。特措法で65000人が申請し審査を受けている。さらに、訴訟が5本…そういう未解決な状態が続いているなかで、僕は傍観者で、事件の周辺をうろついて写真を撮っていた。そういう者がスポットライトを浴びることに負い目を感じて困りましたが。

土門拳賞は、写真界で、ドキュメンタリーですばらしい賞だと存じているので、今日はありがたく頂戴いたします」

桑原史成さん2


「熊本、福岡、宮崎から。玄界灘を渡った僕の田舎の島根津和野から町長さんも。新潟からもおいでくださいました。玄界灘を渡った韓国からも友人が…」と、集まった方々へのお礼の言葉も。本当にたくさんの方がいらしゃっていて、参加者のほぼ全員がはいった集合写真の撮影のときには、カメラの方が、全員を写真に収めるのにご苦労されていました。(でも、とっても声がけの上手な方でした!)

そのなかでも、水俣病事件を撮影されてきた写真家が6人、一堂に会したことには、この授賞式をさらに特別なものにしたのではないでしょうか。こんな機会はめったにないだろうということで、集合写真、撮らせていただきました。

その他のコメント

「去年は水俣病の被害者認定につながる最高裁判決があり、水俣条約が採択された節目の年。このときに、桑原さんに土門拳賞を贈れるのは意義があると思う」伊藤芳明さん(毎日新聞社主筆)

「水俣について桑原さんの『傍観者の負い目』と聞いて、キャパの『ちょっとピンぼけ』のある部分を思い出した。キャパは第二次大戦で負傷した兵士から、おい写真屋、どういう気持ちで写真を撮っているだといわれて、その場を黙って立ち去った。撮影者の内面の葛藤は深く複雑。だけれども、記録しなければ、その現実は歴史として残らないというドキュメンタリーの現実がある。桑原さんの『水俣事件』は、後につづく若い写真家にとって励ましになることを確信している」鈴木龍一郎さん(写真家)



「桑原さんの作品は7月に(展覧会が)予定されている。土門拳記念館でしか味わえない雰囲気をつくる。ぜひ桑原さんの作品は土門拳記念館に見に来てほしい。桑原先生おめでとうございます」高橋修さん(土門拳記念館理事長)

「桑原さんの写真集にも書いてあったが、まさに、水俣に始り、水俣に終わる写真家人生。時代を享受させる報道写真だ」西岡隆男さん(ニッコールクラブ会長)

紹介された祝電
西田弘志水俣市長
坂東克彦弁護士(元新潟水俣病訴訟弁護団長)
ジュリア・トーマスさん ノートルダム大学準教授  
こじまあいこさん シカゴ大学博士課程

選考経過
最終選考に残ったのは11作品。水俣2作品、沖縄3作、その他。実験的な作品もあり。最終的に、桑原さんの『水俣事件』と、小柴一良さんの『水俣よサヨウナラ、コンニチワ』が残り、桑原さんに決定したとのこと。(授賞式での鈴木龍一郎さんのスピーチより)※毎日新聞(2014年3月23日)に詳細あり。






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2013.02.28 (Thu)

水俣病患者支援者との共演?共闘? 映画『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』 のあるシーンについて

1970年 新宿通り。日活オスカー前。水俣病患者支援のカンパ・署名集め。渡哲也 原田芳雄 梶芽衣子… これらの言葉にピンとくる方、いらっしゃいませんか?

二年ほど前になるが、藤田敏八監督の『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』(1970年)を見て驚いた。役者の渡哲也、原田芳雄、梶芽衣子が新宿通りを歩いているシーンに、突然、水俣病患者支援の運動をしている人々が映し出されたのだ。あっけにとられていると、渡哲也扮する「西神勇次」が、背中に「告発」のゼッケンをつけた患者支援の女性に近づき、署名集めに協力する。その様子を、原田芳雄扮する「松方直」と梶芽衣子扮する「笑子」が覗きこむという展開に。この、30秒にも満たない水俣病患者支援者とのシーンは、今も私の心を捉えたまま離さない。なぜなら、「共演」の経緯が謎に包まれているからだ。

このシーン、本物の患者支援運動にゲリラ的に入り込んで撮影されたものなのだろうか。あるいは、本物の患者支援の若者たちと事前に打ち合わせをし、あのシーンを撮影したのか。それとも、映画のために役者が支援者を演じているのか――。

新宿アウトローぶっとばせ
シナリオには、「歩行者天国で賑わう商店街を、笑いながら歩いている三人(略)嬉々として歩く」とだけある。


患者支援のシーン
今はなき「日活オスカー」(映画館)が映っているので、撮影場所は、現在の伊勢丹と丸井本店が面している新宿通りであることは間違いない。

撮影は1970年ではないか。というのも、日活オスカーではこのとき、1970~73年に公開されていた『戦争と人間』が上映中だったからだ。『新宿アウトロー』は70年の作品なので、『戦争と人間』の公開期間とかぶる70年に撮影されたと予想できる。

新宿通りでの患者支援といえば、宮本成美さんが撮影された写真に、このシーンをほうふつさせる一枚がある。1971年1月に撮影されたもので、新宿通りで川本輝夫さんが遺影を抱きながら、支援者がかかえる拡声器のマイクで訴えている写真だ。「怨」の字の旗がはためき、日活オスカーの『エデンの東』の看板が写っている。
もしや、宮本さんの写真に写っている支援者は、映画に映っている支援者と同一人物ではと思い見比べてみたが、一致する顔はなかった。

藤田敏八監督について
映画監督の藤田敏八監督は、1932年平壌生まれ。終戦後は四日市で高校まで過ごし、一浪して東大文学部へ進学。在学中に俳優座養成所に入るが、55年、日活に助監督として入社し、67年に『非行少年・陽の出の叫び』で監督デビュー。70年には『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』を発表した。

過去の新聞記事によると、代表作として取り上げられることが多いのは『八月の濡れた砂』(71年)などの日活青春映画や、『スローなブギにしてくれ』(81年)『ダイヤモンドは傷つかない』(82年)といった作品で、『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』については言及がない。このことから筆者は、未だ「水俣病支援者との共演!?」の真相にたどり着けないでいる。

「異才の映画監督」として藤田監督をとりあげた朝日新聞三重版(2007年9月13日)はこう書いている。

「撮影現場で面白いものを見つけると、即効的にカメラを向けさせた。この遊びが彼の真骨頂で、盟友でプロデューサーの岡田裕は『彼はつじつまのあわないことを思いつく男で、いつも人が考えることを裏切った。いわゆる天才型だった』と話す」。

これを読むと、藤田監督は、偶然、新宿通りで水俣病患者支援の人々を見かけ、あのシーンを撮ったのかもしれないと考えてしまう。だとすれば、この季刊誌の読者のなかに、「そういえば、渡哲也が署名したとか、署名する演技をしたとか、聞いたことがあったな」という方がいてもおかしくないのだが、先日水俣に行った際、何人かに聞いてみたが、みな『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』という映画の存在自体を知らなかった。

藤田監督には、68年に撮影したドキュメンタリー映画『にっぽん零年』という作品がある。

河辺和夫監督との共同制作であるこの作品には、新宿騒乱(68年)や東大安田講堂落城(69年)のシーンも含まれている。藤田監督は学生運動の活動家を密着取材していたというから、どこかで水俣病の患者支援に関わる学生と出会い、水俣病事件になんらかのシンパシーを感じていたとも考えられないだろうか。そういえば『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』の例のシーンは、監督なりの水俣病患者支援運動との「共闘」ではないかという意見も聞いたことがある。

ご本人にお聞きできればいいのだが、藤田監督は97年に、肺不全のため亡くなっている。65歳だった。ご存命であれば、今年で81歳になられる世代のおひとりであった。

映画撮影シーンについて、些細なことでも結構です。ご存知の方いらっしゃいましたら、ご連絡いただければ幸いです。

※季刊水俣支援東京ニュース No.64 2013.1.25 に寄稿した記事を転載。
14:32  |  未分類  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2012.05.28 (Mon)

瀬戸内寂聴さんの「この道」

瀬戸内寂聴さんの「この道」(東京新聞夕刊)。読み始めたきかっけは、連載3回目で 目にした"平塚らいてうが「政治はきらい」と言い切り、全く(大逆)事件に関心を示していない。ただひとり菅野須賀子が女性革命家として殺されているとい うのに"というらいてうの一面に触れたからだった。

先日、半年にわたる連載が終わり、寂聴さんが「この道」を書いた理由を夕刊で述べていた。マスコミが100年前におきた大逆事件と、「青鞜」誕生をほとんど振り返ろうとさえしなかったから書こうと思ったのだという。

同じコラムにこうあった。「女たちは、百年前に比べたら、信じられないほど自由らしく見える。しかし、百年前の女たちの真剣な因習との闘いにさえ無智である。自由らしく見える外形に比べて、内部のむなしさはどうであろう」と。私はどうか。自分に問わざるを得なかった。

東京新聞読者応答室によると、瀬戸内寂聴さんの連載「この道」は、6月に新潮社 より出版予定。しかし私は新聞に掲載された「この道」の切り抜きを捨てられない。毎回の連載に添えられた合計134枚の写真は、書籍には収録されないと考えているからだ。

実際どうなんでしょうね。

追記(2012.7.23)
『烈しい生と美しい死を烈しい生と美しい死を』
というタイトルで本が発売されています。
ネット上にある情報で確認したところ、新聞連載のときのタイトルが、そのまま章立てになっているようです。
連載ごとに掲載されていた写真は、最初の2章においては使われていないようです。


13:31  |  未分類  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2010.09.26 (Sun)

ブログ事情

試験的に使っていますfc2ブログですが、本日、ブログに掲載している画像の整理を行い、
Type Padから、(ほぼ)全ての画像をこちらへ移動させました。

Type Padから今朝、届いたメールによると、
Type Padのトライアル期間が過ぎると、自動的にTypePad の本契約となり、契約料金の課金が始まるとのことで、あわてて、作業したわけです。

ちなみに、最初に私が使っていたのは、Just System の Just Blog だったのですが、
ブログサービスが停止となり、Type Pad への移行が推奨されていまして、それに従いました。
ただし、一定期間を過ぎると、有料になるとあり、いつかは完全なブログの引越しをしなければと思ってはいました。

ほぼ一日、費やしてしまいました。(涙)
写真は、フリッカーなどからブログへ飛ばしたほうがいいんでしょうかね。

そんなわけで、今後も引き続きこちらのブログをよろしくお願いします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
just blog でマイスターブロガーをしていた頃のスクリーンショットです。
マイスターズブログ2
16:03  |  未分類  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2010.05.25 (Tue)

5月25日発売の『週刊朝日』に桑原史成さんの写真が

5月25日発売の『週刊朝日』に、水俣病の写真で有名な、写真家・桑原史成さんの写真が掲載されます。

『週刊朝日』の公式ページにある5月25日号の目次には、
 写真家・桑原史成が撮った 水俣の50年
とありますね!

撮影が行われた5月1日の夕方には、
朝日新聞が、桑原さんの水俣での撮影について記事にしています。

水俣、撮り続けて半世紀 患者ら一堂「凝縮の1枚」

1日午前、水俣病犠牲者慰霊式の開式を控えた熊本県水俣市の会場近く。1人のカメラマンが、患者や遺族ら37人の集合写真を撮影していた。桑原史成(くわばら・しせい)さん(73)。水俣病の惨禍をフィルムに焼き付け、いち早く世に訴えた報道写真家だ。通い始めて50年目の今、「ミナマタの半世紀を凝縮した1枚を」とシャッターを切る。

 海沿いの撮影場所に、つえをついたお年寄りや車いすの胎児性患者らが集まった。かつて桑原さんの被写体となった人やその遺族たちだ。それぞれ、ゆかりの写真を手にして並ぶ。患者の支援を続けてきた水俣病市民会議の会長、日吉フミコさん(95)や、被害者の掘り起こしに努めてきた医師、原田正純さん(75)の姿もある。

 「過去に例がない」という患者らの集合写真の撮影に、桑原さんは「水俣を分断してきた枠を取り払いたい」との思いを込める。(以下略)


外部から水俣を見ている私でさえ、水俣病事件によって分断された関係が、今日まで続いていることは否定できません。

関係がこじれていないとしても、このような桑原さんの呼びかけがなければ、同じ場所に集まることはなかったのではないか、と思えるような嬉しい再会、複雑な再会が撮影現場ではあったように思います。

「記録する」という写真の役目は、
今回は、人と人を結ぶ・・・という役目も果たしたようでした。

青い空と、青い海の広がる不知火海に面した港で、
かつて桑原さんの被写体となった方々が、当時撮影された写真を手にもって並ぶ写真が撮影されたのでした。

その間(10分弱)、石川さゆりさんの歌う演歌が、CDラジカセから流れていました。

20100501_1.jpg

撮影は、なんと、トラックの上から!
右から、桑原史成さん、同じく、水俣を撮影された写真家・小柴一良さん、週刊朝日のカメラマンの方。と、桑原さんからお聞きしております。
20100501_2.jpg



* * *

桑原さんにお聞きしました。

水俣病の最初の出会いは、『週刊朝日』だったそうです。

東京から実家のある島根に帰る新幹線に乗る際、友人がくれた雑誌が『週刊朝日』だったのですが、その号に、水俣病を取り上げた記事があり、桑原さんは「(自分が撮るべきものは)これだ!」と思ったのだそうです。
桑原さんの人生に、『週刊朝日』が大きな影響を与えていたのです。

今回撮影するにあたって、水俣には数日前に現地入りし、5月1日の撮影のお願いについて、一件一件、訪問されたそうです。

私はつい、「電話で事前に連絡をとることはされなかったのでしょうか?」
と聞いてしまいました。
桑原さんは笑顔で、「耳の遠い人に、電話ではお願いできないんですよ」と。

私の想像力の至らなさをモロに実感。(涙)
自分の質問の浅はかさに、一気に恥ずかしくなりました。

桑原さんの素晴らしい写真が、『週刊朝日』に掲載されているはずです!


  


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