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2019.04.28 (Sun)

若槻菊枝と峰村リツ子

かつて、故若槻菊枝さんの東村山のご自宅には、峰村リツ子さんの絵が飾られていた。「マダム・ノアノア」という作品。100.3センチ×80.0センチの大きなキャンバスに描かれているのは若槻菊枝さんである。

自由美術展出品作である「マダム・ノアノア」の制作年は不明だが、菊枝さんのお連れ合いの若槻登美雄さんによれば、菊枝さんと知り合ったとき、すでにこの絵は完成していたという。だとすれば、「マダム・ノアノア」は1963-64年以前に制作されたことになる。

菊枝さんが「マダム」と呼ばれ始めたのは、新宿で飲み屋「ノアノア」の経営を始めてからだから、1950年以降ということになる。最初のノアノアは1950年にハモニカ横丁(現在の新宿駅東口付近)にオープンし、1956年に歌舞伎町に移転した。

ここに峰村リツ子さんの年表を重ねてみる。

1907年新潟市の沼垂に生まれる。
10代後半 東京へ行き油絵を学ぶ。
19歳 池袋モンパルナス・アトリエ村に暮らす
1930年協会展、二科展、独立美術協会に出品。
1934年三岸節子、桜井浜江、佐州敏子らとグループ女艸会を結成。
1943年頃から戦争、子育てなどで制作を一時中断。
50年代より女流画家協会、自由美術家協会等で発表。
59年ニューヨークに約1年滞在。
80年を最後に団体展の出品をやめ、以後は現代画廊(銀座)で毎年個展開催。
89年「新潟の絵画100年展」(新潟市美術館)
90年「ふたつのモンパルナス展」(板橋区立美術館)
91年「昭和の前衛展」(同)に作品が出品される。
93年『峰村リツ子画集』(時の美術社)刊行、朝日ギャラリーで自薦展を開催。
95年没。



1959年のニューヨーク行きは、アメリカ人と結婚した娘さんを訪ねるためで、峰村さんが菊枝さんの自伝『太陽がいっぱい』に寄せた短文には、娘の夫について次のように書かれている。

アメリカ青年ダニエルは私の娘のハズバンド。或日彼が云うには、
「お母さん、新宿のバー「ノアノア」のママさん知っている?彼女絵を描いて二科に出している。とってもいい人よ」
私はかぶき町のにぎやかでせまい通りのバー「ノアノア」を訪ねた。若槻さんは肥って大柄で、胸が大きく開いた黒いドレスをきていた。最初から私を十年の知己のように接してくれた。そして絵描き同志で、郷里が同じ新潟ときくと、なる程新潟なまりもなつかしい。



菊枝さんと峰村さんをつないだ人物は、ダニエルさんというわけだ。菊枝さんの二科展出展は1957年から65年頃までだから、「マダム・ノアノア」制作年は、1957-62年頃までと、さらに狭めて考えることができる。(制作年について私が調べられたはここまで)

さて、峰村さんの短文には、菊枝さんから新しい店の開店の招待状や、電話をよくもらっていたとある。「遊びにくるようにと云ってくれる」ともあり、実際、峰村さんは、東村山の菊枝さんのご自宅に何度か遊びに来たそうだ。

「来ると二階の部屋(当時、菊枝さんがアトリエとして使っていた部屋)に上がっていって、(峰村さんが)ちょっと描かせてよ、といって、菊枝をモデルにして書いていてね」

「で、(後日、先日スケッチした絵を)買ってくれ、という話になって、(菊枝は)買ったんです。そんな絵が二枚くらいあったと思います」

このとき購入した絵や「マダム・ノアノア」も含めて、菊枝さんが所蔵していた峰村リツ子さんの作品は、デッサンも含めて50点以上あった。これら全ては今春、登美雄さんによって、新潟市の画廊、絵屋に全て寄贈された。


私が『若槻菊枝 女の一生』の執筆をしていたときのことだが、登美雄さんから、菊枝さんが峰村さんの絵のヌードモデルをしていたと聞いた記憶があった。だから、5月2日から新潟絵屋で「若槻菊枝蔵の『峰村リツ子裸婦』展」が始まると聞き、そのパンフレットに書かれている「菊枝さん所蔵の絵が、菊枝像以外すべて裸婦であることが面白い」という一文に接したとき、アレ?と思ったのある。菊枝さんもヌードモデルをしていたのだから、菊枝さんの裸婦像もあるのでは、と。

先日、登美雄さんから同展のパンフレットを見せていただきながら、この点について聞いてみた。すると、登美雄さんはパンフレットに掲載されている峰村さんの裸婦作品を指さして、「これは(菊枝がモデルに)間違いない」とポツリ。ソファーに座る裸婦と、その裸婦の足元に眠る猫が描かれている作品である。登美雄さん曰く「そのこと(ヌードモデルをしていたこと)は、(絵を寄贈したときに)伝えなかったからな」とのこと。


それにしても、ヌードモデルを引き受けた菊枝さんの、菊枝さんらしいこと。全く違和感なく私はこのことを受け止めた。

峰村さんのことは、菊枝さんの取材するまで存じ上げなかったが、峰村さんは10代のころに「英語教師の自立した生き方に影響を受け、卒業後『嫁にやらされる』のを嫌って東京に行」くことを実行した人物である。そうと知れば、菊枝さんに負けないほどの情熱の持ち主であることがわかる。ただ、激しい情熱を持つ二人というのは、ぶつかり合うほうが多いのではないかと私なんかは思うのだが、登美雄さんによると、そんなことはなく、夫婦で峰村さんのご自宅に遊びに行き、一階にあるアトリエで絵を見せてもらうような仲だったそうだ。菊枝さんは峰村さんのことを尊敬していた。

今回、「若槻菊枝蔵の『峰村リツ子裸婦』展」が行われる新潟絵屋は、2007年に「太陽がいっぱい 若槻菊枝展」が行われた画廊でもある。東京で数々の個展を開いてきた菊枝さんにとって、故郷、新潟での開催は、これが初めてだった。

菊枝さんも峰村さんも故人となり、登美雄さんは、峰村さんの絵を絵屋に寄贈した。これを受けて絵屋は、「若槻菊枝蔵の『峰村リツ子裸婦』展」をさっそく企画し、こうして、菊枝さんと峰村さん、二人の交流は、私たちにお披露目されることとなったのである。

会期中、絵屋を訪問できないのが残念だが、この拙文をきかっけに、若槻菊枝や峰村リツ子、新潟絵屋に興味を持ってもらえたら嬉しい。

参考サイト 
新潟絵屋 
砂丘館 




峰村リツ子

R0157106.jpg


(新潟絵屋のパンフレットより)




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